先日、ある知人(Aさん)が、別の知人(Bさん)に指摘をしていました。「セーフティーの練習よりももっと先にすべきことがある」、と。
たしかにBさんはB級だし、セーフティーが試合を分けることは少なそうです。その点では、セーフティー以外のことが大事というのは理解できます。
一方でAさんは「ビリヤードは、撞いていればずっと相手に順番を回さないことができるんだから、4連マス、5連マスが連発するようになってからセーフティーは練習すべき」とのこと。それ以外にもセーフティーを練習すべきではない理由をいろいろ言ってました。横にいたけど、話長かった..^^;;
個人的にはセーフティーの練習の是非は結構どうでもいいと思ってます。やりたきゃやればいいし、やりたくなければやらなきゃいい。そもそもB級の人がA級に上がるだけならば、セーフティーの練習をしたってしなくたってどっちでもいいと思ってます
(どっちでもいいっていうのは、文字通りで、別にセーフティーだけ練習してもA級になれるし、一切しなくてもA級になれると思う。セーフティーだけ練習するっていう人は見たことないから見てみたいけど)
さて、ここからが本題なのですが、セーフティーを練習すべきでないと考えているAさんは単なる自分の好みを、正当な理由があると思っているんじゃない?、ってことです。こういうのってよくありますよね?
例えば、(立てキューやジャンプなどを除いた普通の)ショットの瞬間は的球を見るのか、手球を見るのか、みたいな問題に対して、「絶対に手球を見るべき」や「絶対に的球を見るべき」といった人がそれぞれの利点と他の方法の欠点をアレコレ挙げるという展開。どっちのタイプの人も結構な数いるんだから、「好みの問題」だと思ってます。
もちろん、ここで「利き手の右手がこじりやすいのでショットする瞬間の手を見てる」とか言ったら、「それは、ないだろ」とか思うんですが..(それでその人がめっちゃ入れてたらそれでいいけど、でも、その人が初心者にはオススメしてたらどうかな、と思う)
そういえば最近、大阪なおみに絡んで、日本の二重国籍問題をアレコレ言うのをネットでよく見かけますが、あれも「大阪なおみ」を議論の対象にするのはどうなんだー、と思って仕方ないのです。二重国籍に「賛成」、「反対」というのがあって、それに対して議論すればいい(こっちも好みの問題になっちゃうかもしれないけど、多数派はどちらかを支持するのか、ということでしょうか)のが、「大阪なおみが~」みたいな主語(目的語?)の置き換えが起こっている気がします。
自分の「好み」の問題はただの「好み」と自覚することが大事だと思ってます。
(実際には「好み」の裏には自分の「選択」という話が隠れていると思いますが、それは別のおはなし)